Jan 23, 2006

宋家の三姉妹


這篇是我這學期兩個期末演講的內容之一。大概是因為這學期指定科目重心放在日本歷史的闡述,所以期末演講無可避免地出現了「範圍不拘,惟須以歷史為題」的指示。我猶豫甚久,原本想以傑尼斯軍團歷史說明為題(這畢竟是貫穿我學士論文和研一小論文的重點所在),並就過去整理的論文參考資料稍作翻譯即可成篇交稿,講者輕鬆自在,聽者毫無負擔又應景,橫豎顛倒想來都是絕佳好題。

只可惜,一想到這學期以來老師們對文型造句、報告書寫的評論和建議,我正要落下的筆(或手指)突然就畏縮了起來,畢竟要對著花了一個學期教你一大堆極適合論文書寫但平常完全難用的艱澀漢字的師長們笑談傑尼斯,恐怕不如給我一把匕首自盡來得快些。於是乎,始終很顧忌規範並且從無超越勇氣的本人,最後還是屈服於硬繃繃的歷史題,選了大一歷史課時被強迫書寫的宋家皇朝,就手邊現有資料和網路查閱所得再作編寫。

當初之所以選擇宋家三姐妹為題的理由非常簡單,一來大概是我高中時期看了宋家皇朝,對這影響近代東亞史極鉅,卻又一度是討論禁忌的人物起了好奇。二來這三姐妹的故事確實也非常具有傳奇性,無論是在清末民初以女性之姿出國留學、後來陸續與政商頭兒聯姻,或者是日後為了政治理念的歧異衍生齟齬終致分離,她們在人生的各個階段、世間各種場景都顯出了獨特的丰采。

另外這個主題吸引我的原因,也在於這三姐妹日後分離不得相見的遭遇,其實某種程度可以作為兩岸情勢變化的隱喻。我沒有興趣做政治上的討論與分析,也沒有意願去釐清幾十年來紛紛擾擾的彼此試探過程,事實上我常常覺得如果要回首,沒有什麼比「無奈」更適合形容這種奇異的政治場景。三姐妹的分離是非常政治但也非常無奈的,國民政府遷台的軍隊青年遙望故鄉卻如何不能再返時的心情非常無奈,漂移無根始終抓不穩認同所在,或是抓緊了卻被冠上你不是○○人標籤的情節,說到底也都只能以無奈兩個字做結,或者極抽象地歸罪於大時代的悲劇。

我曾經非常想以所謂外省人及其後代為題下筆研究,後來卻發現這將是我永遠無法處理的難題,而且它政治不正確到了極點,以至於學長還要悄聲警告我,小心寫了之後的效應把我推向地獄。我後來終究沒有提筆,和地獄論無關,但其間有我自己思考不能穿越的臨界。這陣子我讀了哈金的「戰廢品」,邊看邊覺他中間所有曲折迂迴反覆的情節說的也不過就是「無奈」這兩個字,他問的問題則是多少曾在去向裡猶疑或根本沒有機會猶疑者吐不出的秘密。然後我想起了去世多年的爺爺,兩岸開放時他毫無猶豫踏上河南省親,回來後他帶給我一支雕花的毛筆,從此沉默寡言了起來,沒多久就病下了;直到他去世以前,誰都不知道他在河南遭遇了哪些故事,那從此成了一道未解而無解的謎,當然也可能他藏下的其實只是「無奈」而已。

扯得太遠了,其實我想說的就是這三姐妹最後的境遇常常讓我聯想至今日的兩岸關係,那些合縱連橫、那些對峙分離,那些混著無奈和說不清的緣由與紛雜的片段,在她們的故事裡其實已見端倪。

宋家的三姐妹,歷史裡的顯赫人物,現代政局的隱喻。
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それでは、私のスピーチを始めさせていただきます。

今日は有る有名な歴史上の人物たちについて話をしたいと思う。それは、所謂宋家の三姉妹、宋藹齢・宋慶齢・宋美齢のことである。このテーマにした理由は二つあります。一つは、昔からいつも歴史上の人物たちの名を挙げた場合、大体男性の英雄しかいないので、今日はこの有名な女性たちについて紹介したいと思う。もう一つは、この三姉妹は近代の中国・台湾の政治に大きな影響を与えたから、とても大切な歴史上の人物たちだと言えるからである。

昔上海にあった所謂四大家族の一つである宋家は印刷事業で発達し豪商である。宋氏はキリスト教徒で、昔からずっと反清の革命運動を支えており、政治の世界でも活躍していた人物である。西洋文化の影響を浸透した宋氏は、六人の子供を全部アメリカへ留学に行かせた。これは、当時また侵略戦争と内戦で政治的に不安定な中国にはとても珍しいことであった。

アメリカのウェスリ女子学院で勉強した宋家の三姉妹は、そこで西洋社会の政治制度や民主主義の概念を習い、中国の政治制度・女性の社会進出について、いろいろ新しいことを考えた。そこから卒業した後、彼女たちは次々に中国へ帰った。

先ず帰ったのは一番年上の宋藹齢である。彼女は中華民国の創立者である孫文の秘書として働き、後に四大家族の孔氏、つまり儒学の創立者である孔子の子孫と結婚になった。頭がいい、行動力も有る藹齢は、夫と一緒に、実家の資産に基づいて新しい事業を始め、国民政府にも沢山資金を貸し続けており、ついに中国の経済が左右できる豪商になった。

次に帰ってきたのは次女の慶齢である。彼女は父親の反対を聞かず、孫文と東京で結婚した。そのため、もともと孫文の仲間であった宋氏は怒っており、彼女と一時的に親子関係を切ってしまった。そして、まだアメリカにいった美齢も呼ばれて帰ってきた。しかし、お姉さんより気が強い美齢は、自分の結婚相手を家族に決められないように、勝手に有る留学生と婚約したが、その婚約は中止になった。帰国した後、彼女は家族の反対を無視し、当時は軍人であった蒋介石と結婚した。

野心家である蒋介石は、孫文の部下であったが、理想を抱えている学者みたいな孫文と違ったタイプの人である。孫文がなくなった後、蒋介石がリーダーした国民党は共産党と対立になって戦争を始めた。そのため、孫文の理想、つまり共産党と和平を結び、共存することを継承した慶齢は、蒋介石の政策を認められないから、共産党側に入った。そのため、彼女は国民党側にいる資本家である藹齢・国民党の主席夫人である美齢と会えなくなった。その時から、彼女たちはそれぞれの違った道を歩いていくことになった。

資本家である藹齢は、国民政府に資金を貸して続けたが、自分は直接的に政治活動に参加しなかった。共産党側にいた慶齢は、共産党側で男女の平等運動・教育改革を進めたが、実質的の政治活動に参加しなかった。この二人に対して、一番若い妹である美齢は政治活動に没頭し、活躍していた女性になった。第二次世界大戦のとき、英語がよく、社交マナーも上手な彼女は欧米諸国へスピーチに行き、各国からの軍事的援助の約束を得た。そして、蒋介石が有る軍閥に拉致された西安事変の際には、彼女が冷静に軍閥と話し、蒋介石を助け、国民党と共産党の共同対日作戦を促した。それだけでなく、実は当時の国民政府の初めでの区軍チームも彼女によって作られたものである。それらのことから、彼女はいっかに大きな権力を握っていたかが分かるであろう。

西安事変の後、宋家の三姉妹はまた会えるようになったが、戦後再開された国・共戦争によって、永遠に別れるようになった。国民党が負けた後、藹齢はアメリカへ行き、なくなるまでずっとアメリカに住んだが、中国に残した慶齢は、後に共産党に「中華人民共和国名誉主席」と言うふうに呼ばれた。そして、国民政府と一緒に台湾にきた宋美齢は、最初は蒋介石を助けて政治を行ったが、蒋介石の息子である蒋経国と関係が悪いので、政権が蒋経国のてに移った後、彼女はアメリカにいき、なくなるまでずっとアメリカに住み、台湾の政治との関係を切ってしまった。

これは宋家の三姉妹の物語である。この三姉妹の生涯に基づいて作られた「宋家の三姉妹」と言う映画の中に、彼女たちは次のように言われている。「宋家の三姉妹、一人は富を愛し、一人は祖国を愛し、一人は権力を愛した」と。