Oct 3, 2005

外來語

Keio慶應一隅

今天下午,我交出了生平第一篇日文作文,這篇總計不過數百個字的迷你短文,佔去了我將近半個周日的書寫時間,而且還是不斷查詢網頁、搜尋字典、咀嚼、篩選、思考後產出的結果,實在字字都血淚。雖然如此,我仍有種寫得並不過癮的感覺,這並不是因為我多麼熱愛日文書寫,而是四百字的底限雖然看來有些遙遠,但在一個日文字佔去四五格的情況下,常常沒幾個長句就用掉了泰半篇幅,因而出現我才剛開始導言,字數上卻已經理當完結的尷尬場面。

於是我不得不轉來Blog,改用我熟悉的語言進行書寫,以期填補那篇以中文標準看來完全不合格的作文空缺。今天的主題很簡單,叫「日本語的迷惑(1):外來語」。如果你稍微明白日文的語詞單位,大概會知道日文裡有所謂平假名、片假名的差別,片假名的使用有時是為了刻意的突顯與強調,另外則有更多時候是用來拼組「外來語」的發音。這種以拼組發音表現「外來語」的方式行之有年,過去主要用以呈現外國地名、人名,近年則因國際資訊交流頻繁,開始出現語意不明又落落長的外來語浮濫現象。

事實上,外來語各國都有,台灣也不例外,不過我們比較常用的作法是採「意譯」呈現,也就是不以發音而以物件所指為考量,重新研擬對應的名詞安上。意譯的好處是它雖然與原物發音遙遠,但大抵透過視覺文字的呈現即可明白物件功能或基本目的。當然中文裡頭也有依據音譯而來的辭彙,比方沙發、沙拉、巧克力、咖啡云云,但因數量並不驚人,使用起來就沒有太大的障礙和困難。此外,台灣的外來語主要以英語為大宗,若有非英語者多半也已是世界共通的辭彙,相較而言來源十分單純。

與此相對,日本的外來語則呈現極為繁複的狀態。首先日文的外來語是以音譯為主軸,根據發音尋找相對應的片假名,重新排列組合成為帶著日本味道的異國風情。再者,日文的外來語根源多元,英語之外還充斥著法文、德文、義大利文、西班牙文、荷蘭文、越南文、中文等等語言導入的單字,拼組起來儼然是一副驚人的國際場景。

老實說,我真的十分敬佩日人忠於原味的情懷,及其為此不惜花上七八個片假名呈現單字的耐性(畢竟我是學了日文才明白Agnes b.應該唸成A-NI-E-Su-Be-),然而語言畢竟已經飄洋過海又換了姿態,再怎麼力逼真實都不免帶著曖昧的腔調和扭曲的音韻。加以我實在太過習慣視覺至上的漢字風格,突然把我丟入片假名構造的音響空間強迫辨識,無疑就像麥克魯漢筆下兩種斷裂文化的相接,沒一點衝突誤會征戰的過程,恐怕不足構成理解。

正因如此,外來語成為我在日本生活時某種不便的來源,特別是進入洋式餐廳或刻意洋式的商店時尤為如此,我通常得在心裡先默唸個數十回,才能確保點餐時叫得出完整的名號,但並不保證音調的起伏長短正確。更糟的是有些時候菜單上沒有對應的圖號,就算片假名個個流暢無礙地發出音來,桌上會跑出什麼菜卻誰也沒把握。我曾經問過煙斗,一般常見的外來語也就罷了,義大利餐館那些饒舌拗口滑不溜咚的名號,沒聽過沒吃過沒看過的人可怎麼知道內容為何?煙斗照慣例的深吸口氣陷入沉思,一副深有所感的說的確不知道呢,可見外來語浮濫化引發的困擾並不只出現在外國人呀呀學語的過程,對母語者而言同樣也有失去指涉意義的危險,甚至進一步形成溝通上的斷裂。

日文裡有多少外來語眾說紛紜,日本國立國語研究所調查發現,雜誌常有的外來語約莫三千、新聞則有五千左右,但三省堂出版的外來語字典裡,則囊括兩萬個以上的外來語,其中還不包括私人商店企業餐廳品牌為了趕時髦引入的語彙。而針對外來語日漸浮濫的情形,社會議論未定,在確切的相應策略出現以前,只能任憑這些鏗鏘的聲音繼續漂浮在語言世界。

外來語之於我,就像漢字之於非漢字國學生一樣,都是侵逼的噩夢。

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   日本語の迷惑:外来語

 日本語を勉強している外国人に「にほんごでは何が一番理解しにくい部分か?」と聞けば、人によって、答えはいろいろと変わるであろう。例えば、アルハァ・ベットを中心として言葉を作ってきたヨーロッパやアメリカなどからの人たちは、たぶん「漢字だ」と答えるが、感じを使ってる国からの人はまたほかの悩みを持っているであろう。
 私の場合は、一番理解しにくいのは日本語の外来語である。外来語とは、外国から輸入してきた言葉と言うことである。どの国でも外来語があるが、日本の外来語は数も、使う場合も非常に多い。
 私の出身の台湾と比べると、日本の外来語には二つの特徴があると思う。ひとつは全部発音によるカタカナで単語が作られていることで、もうひとつは出身地の多様化ということである。つまり、もし体験したこともないし、その言葉の意味も知らなければ、見ても分からないことがよくあるわけである。そして、日本の外来語は英語だけでなく、フランス語や、イタリア語、ドイツ語などからの言葉もたくさんあり、出身地はずいぶん多様化していると言える。しかし、それも外来語の意味の混乱の一因であると言われている。
 だから、外来語は語学の面から言うと、日本語の内容を富ませるのに役立つが、コミュニケーションの面から言うと、障害になり、お互いに通じないことが多い。つまり、外来語は漢字を使っている国からの私にとっては、漢字が漢字を使わない国からの人にとってのように難しい迷惑なものである。
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